怪文書

エロゲ、V、写真など適当に

久々の日本語

最近、今の生活/人生は持続可能か、ということをよく考える。

 

別に、そう思うに至るほど酷い生活ではないと思う。
社会人(この言い回しは嫌いなのだけれど)になってもうすぐ1年が経過するわけだが、
少々残業は多いものの、世間一般の基準に照らせば恵まれているほうに属する職場環境だろう。
基本的に仲が良いし、楽しいと思う瞬間がないわけでもない。
とはいえ、平日はほぼ帰って飯と風呂を済ませたら寝るだけ、という生活が持続可能かと言われれば、
非常に悩ましいところである。
休日は適度に遊びつつ出勤に備えるようなイメージなので、身体もたぶん問題ないだろう。
ただ、ふと思うのは、この生活をあと40年も続けるのだと思うと、とてもじゃないが持続可能ではないだろう、ということである。
身体の問題というよりは、単に気が遠くなるという話である。

 

断っておくが、別に鬱でもなんでもない。どちらかと言えば心身は健康なほうだろう。
職場環境も家庭環境も極めて恵まれているほうだ。
しかし、ただ純粋に、何の混じり気もなく思うのだ。
この調子であと40年生きていくとして、それは幸せなのだろうか、と。
そこまで苦労して生きる意味とは?、と。

 

とはいえ、これに対して、私は随分前から明確な解答を持っている。
すなわち、生きる意味など元から存在しない、それを探し続けるのが人生というものではないか、ということだ(グリザイアか何かで似たような台詞があった気がする)。それが見つかってしまえば何の苦労もないのだろう。
もちろん、短期的(刹那的)には生きる意味などいくらでも存在する。
顔と声の良いVTuberを見れば気持ち悪い笑みを浮かべられるし、車弄りや珍走は楽しいものである。多くはないが友人もいる。

 

ただ、長期的な視点で見れば、特に理由がない。
これは私個人の性格の問題なのだが、自分のため、という理由では限界があるのだ。
少なくとも数十年という長いスパンで何かを継続するには、誰かのため、という動機が多少なりとも必要なのだと思う。
しかしながら、今の私は特に守るべきものを持たない。
だから、残業で帰宅が22時近くなっても、別に家庭を持ってるわけじゃないからなぁ、極論どうでもいいなぁ、となってしまうのである。
そしてそれを思う瞬間が何より虚無であるし、持続可能性について考えるに至る理由である。


改めて断っておくが、別に鬱でもなんでもない。
要するに人(肌)恋しいだけなのだと思う。
"WHITE ALBUM"の季節だしね(意味不明)。
(単に何か久々に日本語が書きたかっただけ、というのもある。)

 

ので、私を何かに誘いたいと思う奇特な人がいれば、
声を掛けてくれれば可能な限り応えますよ、という話でした。